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「その髪が見えないようにしなさい」
冷たい声とともに、灰色の布が頭から被せられた。
薄暗い控室の鏡に映る自分の姿を、セレナは黙って見つめた。 彼女の腰まで届く銀髪は、布の内側へ押し込められている。 何本かこぼれ落ちた髪を、侍女が慌てて拾い上げ、見えないように隠していく――まるで、人目に触れてはならない汚らわしいものを扱うような手つきだった。「今夜は、リリアーヌの晴れの日なのだから」
鏡越しに母親であるマリアンヌの姿が見えた。
彼女は金色の髪を美しく結い上げ、淡い水色のドレスをまとっている。
社交界で称賛される公爵夫人らしく、その姿には隙がない。――けれど、母はセレナの名前を呼ばなかった。
幼い頃から、ずっとそうだった。
実の子だと言うのに、彼女の名を呼ぶことなど一度も――”セレナ”という名を母の口から聞いた記憶はほとんどない。「……申し訳ございません、お母様」
セレナが小さく答えると、マリアンヌはわずかに眉を寄せた。
「謝罪は求めていませんから余計なことをしないで」
「……はい」反論しようとは思わなかった。
何を言っても、母をさらに不快にさせるだけだと昔からもう知っている。 慣れた事なのだ。銀髪で生まれたことは、セレナ自身にもどうすることもできない。
それでも、幼い頃から何度も責められてきた。――お前の髪は不吉だ。
――屋敷の外へ出てはならない。 ――人前に姿を見せてはならない。 ――誰かに見られれば、公爵家の恥になる。いつの間にかセレナは、謝ることだけが上手になっていた。
「お母様、こちらの髪飾りはいかがでしょう?」
明るい声が、控室の空気を変えた。
振り向かなくても、誰が入ってきたのか分かる――妹のリリアーヌだった。 淡い桃色のドレスは、幾重にも重ねられた薄布が歩くたびに柔らかく揺れ、母親と同じ金色の髪には、小粒の真珠と宝石を散らした髪飾りが添えられていた。 王都で今もっとも評判の仕立屋に作らせたものだと、使用人たちが話していた。「まあ、よく似合っているわ」
先ほどまで冷え切っていた母の表情が、春の日差しを受けたように和らいだ。
「本当に綺麗よリリアーヌ。今夜はきっと、皆があなたに見惚れるでしょうね」
「そんな、お母様ったら」リリアーヌは恥ずかしそうに頬を染めた。
ただ、その様子を、セレナは鏡越しに見ていた。――母は、そんなふうにも笑えるのだ。
知っているはずなのに、何度目にしても胸の奥が少しだけ痛む、そう、痛むだけだった。
もう、羨ましいと思うことさえ許されないような気がしていた。「フフ……お姉様も、今夜は大変ですわね」
リリアーヌが、ふいにセレナへ声をかけた。
心配そうに眉を下げ、灰色の布を見つめる。「その布、苦しくありませんか?」
「もうなれました、大丈夫です」 「本当に?お姉様は我慢強い方ですから、いつも無理をなさるでしょう?」柔らかな声音で彼女は笑う。
もしも事情を知らない者が聞けば、姉を気遣う優しい妹に見えるだろう。 けれど、セレナは知っている。 リリアーヌは、セレナが人前で銀髪をさらすことを誰よりも嫌がっている。幼い頃、一度だけ風に飛ばされた頭巾から髪がこぼれたことがあった。
その時、リリアーヌは泣き叫んだ。――怖い。
――近づかないで。 ――お姉様の髪を見ると、悪いことが起きる。その声に駆けつけた両親は、泣いているリリアーヌを抱きしめた。
セレナには、離れから出ないよう厳しく言いつけた。 それ以来、リリアーヌが泣けば、悪いのはいつもセレナだった。「お姉様」
呼びかけられ、セレナは我に返った。
リリアーヌは相変わらず心配そうな顔をしている。「今夜は、余計なことをおっしゃらないでくださいね?」
「……余計なこと、ですか?」 「ええ」リリアーヌは困ったように微笑んだ。
「殿下は近頃とてもお疲れなのです。魔物の被害も増えておりますし、王太子としてお考えにならなければならないことが多いのでしょう」
「そう、ですか」 「ですから、お姉様まで殿下を困らせてはいけませんわ」リリアーヌは一歩近づき、セレナの手を取った。
その手は冷たい。 けれど、傍目には姉妹が仲睦まじく手を取り合っているように見えるだろう。「……お姉様は殿下の婚約者なのですもの。殿下のお立場を、誰よりも理解して差し上げなくては」
王太子アルベルトの婚約者――その言葉は、何度聞いても自分のことではないように感じられた。
セレナがアルベルトと婚約したのは、十二歳の頃だった。
けれど、二人きりで言葉を交わした記憶はほとんどない。 夜会へ出席しても、彼の隣に立つことは許されない。 婚約者として贈り物を受け取ったこともない。 体調を崩した時に、見舞いの言葉をもらったことさえなかった。 代わりに、アルベルトの隣で笑うのはいつもリリアーヌだった。それでも、誰も問題にはしない。
華やかな妹と、灰色の布で髪を隠した姉。
どちらが王太子の隣にふさわしいかなど、言葉にするまでもないと思われているのだろう。「……ええ、わかったわ」
セレナが頷くと、リリアーヌは安心したように微笑んだ。
「さすがお姉様ですわ。きっと分かってくださると思っていました」
その言葉に、胸の奥が静かに沈んでいく。
そう、分かっている。
セレナは昔から、分かっているつもりだった。
自分が我慢すれば、皆が安心する。
自分が黙っていれば、誰も困らない。 自分が余計なことを望まなければ、家族は穏やかに暮らせる。 だから、今日も頷く。 それ以外の選択肢を、セレナは知らなかった。 すると、控室の扉が開いた。 そこに現れたのは父親であるオズワルドだ。 黒髪には白いものが混じり、厳格な顔にはいつも以上に深い皺が刻まれている。 父の視線は、まず華やかなリリアーヌへ向いた。「よく似合っているぞ、リリアーヌ」
「ありがとうございます、お父様」父親の言葉に対し、リリアーヌは嬉しそうに笑った。
その後で、父はようやくセレナを見た。 灰色の布で銀髪を隠し、目立たない濃紺のドレスをまとった娘を。 その目に、愛情らしきものはなかった。「準備ができたなら行くぞ」
「はい、お父様」セレナは静かに立ち上がった。
布の内側へ押し込められた銀髪が、背中でわずかに揺れる。 廊下へ出ると、大広間から音楽と笑い声が聞こえてきた。 今夜の夜会は、いつもより多くの貴族が集められているらしい。 魔物の被害が広がっているというのに、王宮は眩しいほどの灯りに包まれていた。 大広間へ続く扉の前で、父が足を止めた。 振り返りもせず、低い声で告げる。「……今夜、お前の処遇が決まる」
「……え?」その言葉を聞いて、セレナは息を止めた。
処遇――婚約者である娘へ向けるには、あまりにも冷たい言葉だった。
けれど、問い返すことはできなかった。
父は、ようやくセレナへ視線を向けた。「公爵家の娘として、最後まで恥をさらすな、いいな?」
それを言った瞬間、重い扉が、ゆっくりと開かれていく。
眩しい光とともに、大勢の貴族たちの視線がセレナへ向けられた。 灰色の布の奥で、銀髪がひどく冷たく感じられた。大神官ベルンハルトが大広間の中央へ進み出ると、誰もが息を潜めた。 白い法衣は、床に届くほど長い。 胸元には神殿の紋章をかたどった銀の飾りが下がり、蝋燭の光を静かに返している。 痩せた顔立ち。 整えられた白髪。 穏やかな笑み。 その姿だけを見れば、長年にわたって王国を支えてきた敬虔な聖職者に見えた。 だからこそ、人々は彼の言葉を疑わない。「皆様も、すでにご存じのことでしょう」 ベルンハルトは、広間全体へ語りかけるようにゆっくりと言った。「近頃、魔物の森の周辺では異変が続いております」 それを聞いて、ざわめきが広がる。 先ほどまで囁かれていた話題が、大神官の口から改めて語られていく。「街道では、商人の馬車が襲われました。北部の農村では、多くの家畜が姿を消しております」 静かな声で、彼は告げる。 同時に誰かが不安そうに息を呑む。「魔石鉱山では、これまでにない規模の魔力暴走が起こりました」 広間の空気が、少しずつ重くなっていく。 並べられた言葉は、どれもセレナが先ほど耳にしたものだった。 けれど、大神官の口から語られると、噂話とは違う重みを持つ。「これは、一時的な異変ではありません」 ベルンハルトは、そう続けた。「森の魔力そのものが乱れているのです」 広間のあちこちで、顔を見合わせる者がいた。「そんな……」「では、これからさらに被害が広がると?」「王都まで魔物が押し寄せることもあるのですか?」 声を潜めていても、不安は隠しきれない。 ベルンハルトは、彼らの動揺を静かに見守っていた。 まるで、あえて恐怖が広がるのを待っているように。 セレナは壁際で立ったまま、灰色の布の端をそっと握りしめた。 布の内側へ押し込めた銀髪が、首筋へ触れている。 ひやりとした感触が、妙に鮮明だった。「――けれど、ご安心ください」 ベルンハルトの声が、再び広間へ響く。「神殿には、古くから伝わる記録がございます」 その言葉に、人々は一斉に大神官へ視線を向けた。 不安に沈んだ者が救いを求めるように。「森の災厄が目覚める時、必ず前触れが現れる」 ベルンハルトは、懐から一冊の古びた書物を取り出した。 濃い革の表紙には細かな傷があり、長い年月を経てきたことが分かる。「王国の古い伝承によれば、その前触れとは、銀髪を持つ娘の出現で
大広間へ足を踏み入れた瞬間、セレナは肌に突き刺さるような視線を感じた。 王宮の夜会は、いつも華やかだった。 高い天井には、無数の蝋燭を灯した大きなシャンデリアが吊るされている。 磨き上げられた床には光が反射し、楽団の奏でる優雅な旋律が広間全体を満たしていた。 色鮮やかなドレス。 宝石を散りばめた髪飾り。 上等な酒を手に談笑する貴族たち。 ――誰もが笑っている。 けれど、セレナが姿を見せた途端、その笑い声はほんの少しだけ揺らいだ。「あれが……」「ええ。エヴァレット公爵家の」「まさか、王宮へ連れてくるなんて」 聞こえないふりをすることには、慣れていた。 セレナは灰色の布がずれていないことを確かめながら、父と母の後ろを歩いた。 少しでも銀髪がこぼれれば、誰かが不安そうな顔をする。 あるいは、あからさまに距離を取る。 それを避けるため、背筋を伸ばし、目立たないように歩く。 ――不思議なものだった。 目立つなと言われ続けてきたのに、何もしなくても視線だけは集まる。 忌むべき銀髪を持つ娘――その噂だけで、セレナはどこにいても人々の意識を引きつけてしまう。「――セレナ」 名前を呼ばれ、セレナは顔を上げた。 声をかけてきたのは父親のオズワルドだった。 広間の中央へ向かうことなく、壁際の一角を顎で示している。「そこで控えていなさい」「はい、お父様」 セレナは素直に頷いた。 王太子の婚約者であるなら、本来は彼の近くに立つべきなのだろう。 けれど、それを口にするつもりはなかった。 以前、一度だけアルベルトの隣へ近づこうとしたことがある。 王家主催の晩餐会で、婚約者として挨拶をする必要があると思ったからだ。 その時、アルベルトは露骨に顔をしかめた。「君は少し離れていてくれ」 声を荒らげたわけではない。 けれど、周囲に聞こえるには十分な声量だった。「その姿では、場の空気を暗くするだろう?」 王太子のその言葉を聞いて、誰かが小さく笑った。 その笑い声をセレナは今でも覚えている。 以来、自分からアルベルトの隣へ向かうことはなくなった。 今夜も同じだった――広間の中央には、金髪に青い瞳を持つ青年が立っている。 ――王太子アルベルト・ラウエンシュタイン。 整った顔立ちに柔らかな微笑みを浮かべ、周囲の貴族たちと言葉を
「その髪が見えないようにしなさい」 冷たい声とともに、灰色の布が頭から被せられた。 薄暗い控室の鏡に映る自分の姿を、セレナは黙って見つめた。 彼女の腰まで届く銀髪は、布の内側へ押し込められている。 何本かこぼれ落ちた髪を、侍女が慌てて拾い上げ、見えないように隠していく――まるで、人目に触れてはならない汚らわしいものを扱うような手つきだった。「今夜は、リリアーヌの晴れの日なのだから」 鏡越しに母親であるマリアンヌの姿が見えた。 彼女は金色の髪を美しく結い上げ、淡い水色のドレスをまとっている。 社交界で称賛される公爵夫人らしく、その姿には隙がない。 ――けれど、母はセレナの名前を呼ばなかった。 幼い頃から、ずっとそうだった。 実の子だと言うのに、彼女の名を呼ぶことなど一度も――”セレナ”という名を母の口から聞いた記憶はほとんどない。「……申し訳ございません、お母様」 セレナが小さく答えると、マリアンヌはわずかに眉を寄せた。「謝罪は求めていませんから余計なことをしないで」「……はい」 反論しようとは思わなかった。 何を言っても、母をさらに不快にさせるだけだと昔からもう知っている。 慣れた事なのだ。 銀髪で生まれたことは、セレナ自身にもどうすることもできない。 それでも、幼い頃から何度も責められてきた。 ――お前の髪は不吉だ。 ――屋敷の外へ出てはならない。 ――人前に姿を見せてはならない。 ――誰かに見られれば、公爵家の恥になる。 いつの間にかセレナは、謝ることだけが上手になっていた。「お母様、こちらの髪飾りはいかがでしょう?」 明るい声が、控室の空気を変えた。 振り向かなくても、誰が入ってきたのか分かる――妹のリリアーヌだった。 淡い桃色のドレスは、幾重にも重ねられた薄布が歩くたびに柔らかく揺れ、母親と同じ金色の髪には、小粒の真珠と宝石を散らした髪飾りが添えられていた。 王都で今もっとも評判の仕立屋に作らせたものだと、使用人たちが話していた。「まあ、よく似合っているわ」 先ほどまで冷え切っていた母の表情が、春の日差しを受けたように和らいだ。「本当に綺麗よリリアーヌ。今夜はきっと、皆があなたに見惚れるでしょうね」「そんな、お母様ったら」 リリアーヌは恥ずかしそうに頬を染めた。 ただ、その様子を、セレ